橋本の家族達の動きを




2005.5 頃撮影 



2010.03.11撮影                2010.04.08撮影


相模原市 緑区 東橋本 2丁目の寓居 南側ベランダから

望んだ一望(遠くの山々は丹沢山塊)

富士山はこちらが丹沢の麓に当たるため、残念ながら望めない
私の寓居はこの写真の裏側にあり
最上階2番目東南角に位置しています


(ところで、真っ正面にある山は「大山」と云います、チョットカーソルを(ロールオーバー効果))




仙台小野家従兄弟達の会合に併せて
JR「大人の休日」を利用した旅行 



橋本 〜 盛岡 〜 松島(「活魚の宿」 泊り)

松島 〜 仙台 〜 角舘(「ホテルフォルクローロ角館」 泊り)

角 〜 酒田 〜 湯野浜温泉(「ホテル福住」 泊り)

鶴岡 〜 新潟経由で橋本に帰宅







 H26.06.21「盛岡」での記録



下欄をクリックして
  盛岡の芸術と文化をPDFで



   



 H26.06.21「松島」での記録


   

 

   



  6/21の盛岡、松島での記念写真を掲載しています

上のPDFファイルは、画面内で「」記号をクリックする拡大します。






 H26.06.22「角舘」での記録






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  H26.06.22「角舘」での記念写真を掲載しています







 H26.06.2324「酒田・鶴岡」での記録







   



 酒田の観光案内です
 

 鶴岡の観光案内です



  H26.06.2324「酒田・鶴岡」での記念写真掲載








 仙台へ昌子さんのお見舞いで(14.05.14)


 入院中の療養所にて  秋保温泉にて



清里・下諏訪方面へ(10.05.01〜05.02)

中央線小淵沢駅〜清泉寮(清里)〜野辺山(小海線)〜

野辺山天文台〜

萌木の村〜八ヶ岳ロイヤルホテル(泊)

下諏訪大社〜道の駅小淵沢〜三分一湧水(北杜市)〜

中央線小淵沢駅〜橋本駅




八ヶ岳ロイヤルホテル

  
  この雄大な景観に吸い込まれそうな、そして、時間を忘れさせるよう


標高を誇るJR 小梅線野辺山 八ヶ岳全景 文化情報センター ひもじさから開放
宇 宙 電 波 観 測 所
諏訪 大社 昼食
道の駅小淵沢で 三分一源泉池 その言われ 三分一分水点 流水量

END


仙台方面へ(08.08.01〜08.04)
 
石巻〜女川〜鮎川〜金華山〜松島(泊) (8/1)
仙台(泊)〜泉〜磯原(泊) (8/3)
北栃木 から 帰宅(8/4) 
(サムネイルですクリックで拡大)
(写真説明の下線青は説明にリンク)

女川港 御番所公園から金華山
御番所公園から
御番所公園のハウス 公園からの帰途 鮎川港で 法要後
バスでホテルへ 徹君挨拶 会食
淨蓮寺
石仏群に 石沢寺
イボ取り地蔵
野口雨情記念館 天心の墓
六角堂入り口で 国宝 願成寺
白水観音堂 老巨木
蓮の花が満開 願成寺 水子地蔵




「二つ島観光ホテル」の直前にある島二つ、当日は曇天でベタ凪であった。

浄蓮寺

 
八葉山淨蓮寺は、858年(天安2年)天台宗三代の座王、慈覚大師が自ら道場を開き、阿弥陀如来像を作って安置したという。
寺は、1574年兵火に遭い古記類を焼失、さらに、1848年にも火災により、宝物類も焼失した。
本堂は1857年に、本尊の阿弥陀如来は11681年に、仁王尊は、1683年のものである。
しかし、この寺は1190年源 頼朝から50石を受けるなど寺勢20余りを配下に置いていた、白水阿弥陀堂(いわき市)とともに一世を風靡していた。

石沢寺

名称 無量山来迎院石沢寺(天台宗)  江戸幕末期の義賊として一世を風靡したとうたわれる木鼠の吉五郎は、のちに発心し、上野寛永寺で得度、やがて権少僧都「西念坊」となり、この寺で没したとの伝説がある。
石沢寺は、通称、中妻阿弥陀堂と呼ばれ、天台宗比叡山延暦寺の流れをくむ浄蓮寺の末寺として、古くから庶民の信仰厚く、御本尊阿弥陀如来像があり、本堂建物とともに、北茨城市指定有形文化財に指定された。

野口 雨情生家

磯原町の廻船問屋の家に生まれる。本名えいきち英吉。野口家は楠木氏の流れをくむと伝える名家で水戸藩の郷士であった。徳川光圀はその家を「観海亭」と呼び、地元民は「磯原御殿」と称した。明治29年、衆議院議員の伯父野口勝一を頼って上京、東京専門学校に学び、かたわら、坪内逍遥に師事した。明治38年、日本最初の創作民謡集「枯草」を出版、詩人として注目される。

 

五浦六角堂

「岡倉 天心」は横浜に生まれ、本名覚三。欧米文化に酔い、国粋文化が閉却されていた明治初期、アメリカの美術研究家フェノロサや狩野芳崖らと国粋美術の復興に尽力した。明治に生まれ、本名覚三。欧米文化に酔い、国粋文化が閉却されていた明治初期、アメリカの美術研究家フェノロサや狩野芳崖らと国粋美術の復興に尽力した。明治22年帝国植物館美術部長、翌年には東京美術学校校長となり、日本美術界の指導者として「国宝制度」を確立した。明治39年、日本美術院を大津の五浦に移転、家族や横山大観ら愛弟子と移住、東洋のバルビゾン形成を目指した。太平洋に張り出した崖上の六角堂は、天心の思索の場であったという。この地を愛した

国宝 願成寺
願成寺 国宝 白水阿弥陀堂は、1160年(永暦元年)藤原 清衡の娘「徳姫」がこの霊地に寺を建立し、「無量寿院願成寺」と称した。
姫は、夫「岩城の国守 岩城太夫則道」の没後 帰依し、剃髪して「徳尼御前」とよばれ、亡夫の冥福を祈った。
白水の地名は奥州平泉の泉を分字して「白水」と名付けたと、伝えられている。






長野方面へ(08.04.24)



高遠の「桜」を目標として出掛けたが、当日(08.04.24)は雨に襲われて、止む無く「かんてんぱぱ」に直行した、「かんてんぱぱ」のガーデンは広く、良く整備されていた。それぞれの建物には土産物など、そして食事には満足して、次の目的地「昼神温泉天心」に、今満開の桜を眺めながら向かった

2日目は中山道を北上し「目覚の床」「奈良井宿」を経て「浅間温泉天空」へ(良いホテルでした)

3日目は残念ながら、景観を見ずに霧深い
「美ヶ原」に別れを告げて諏訪へ直行「真澄の宮坂醸造」に向かう、好天であることを予測して「車山」「白樺湖」等々、予定の昼食場所もNGになってしまった。「美ヶ原」は標高1,900mあり、雪がゴッソリと積もっていた

写真は「サムネィル」になっていますから、クリックすると拡大します


「かんてんぱぱ」にて 風呂上がりのビールで 何を飲もうかナ 冷酒で先ず一杯 昼神温泉天心から
昼神の桜 宿泊費を精算して 山頂の残雪と麓の桜
道の駅「大桑」 寝覚の床に着いた ここにも西洋たんぽぽ これも桜だヨ
寝覚の床で記念写真 万歳(バンセー) 私も此処だヨ ここにも居るヨー
道の駅 木曽町日義の地図 そば屋の前で 中山道奈良井宿 奈良井宿標識
奈良井宿 門前で記念撮影 十字架を秘めた仏像 奈良井宿の桜
奈良井宿 そろそろ浅間へ 奈良井宿の地図 大王ワサビ園 記念に
ワサビ畑 浅間温泉天空の 釜飯の中身をゴッソリ 諏訪湖畔で



4月の誕生日は「父 小野 良」「姉 佐藤 みさ子」
「兄 佐藤房利」でしたが?
申し訳ない「お言葉」までいただきました





仙台方面へ(07.08.04)

07.08.04(金)一関からレンタカーを利用して「中尊寺」へ 
           (宿泊は「一関かんぽの宿」に
       yuuji/asako



 藤原家の繁栄と栄華、14世紀によくぞと感じられた。

 現在とは違い、社会の格差はもっともっと大きく、考えるだけでも労働者の辛酸が理解できた。



以下の小さい写真は
クリックすると拡大します



翌朝、仙台へ「仙台駅」で健一さんと出会う
この後、3人で土樋の一周忌会場へ










ホテルのチェックアウト時にホテルの
大女将も入って、記念撮影

07.06.16(土)17(日)を利用しての旅行、元今市で食事をして日光へ向かう、宿泊はホテル「七重八重」に、17日の昼食は浅草「桃太郎」焼きかつで END

(下の小さい写真は「サムネィル」に してあります、クリックで拡大)


車中の様子


下今市 うなぎの「魚登久」に入ったが、何故か牛タンに人気が
(サムネイル)





お腹も満杯いよいよ日光に向かった、始めて日光へ と言う方も


下の小さい写真はサムネィルです


日光の見学も済み いよいよ東武日光駅から 鬼怒川のホテル「七重八重」に向かった


そろそろチェックアウト、記念写真撮影後家路に向かう、



昼食は浅草「焼かつ 桃太郎」に決めて電車に   



 2013年5月9日〜11日
能登路へツアー




 能登路へのTour 詳細をスライドにリンクします





END