仙臺小野家の住まいは、この「瑞鳳殿」の門前に
家の前の道は、参拝者の方で
賑わっている。
小野家のこと
お祝いの会は、魚も美味しく盛り上がりました。
徹さん有り難うございました。
(今回はカメラマン不在で残念でした)
H22.11.7_小野家家族の懇親会_ |
宴会模様(クリックして見てネ)
秋保大滝 日本三大瀑布のひとつ。落差は55m、幅は6mの豪快な滝は、まさに 圧卷。 滝見台をはじめ、滝壺まで降りられる遊歩道もある。 滝壺へ向かう遊歩道の一部が崩落しているため 現在工事中であった。 この滝は、マイナスイオン濃度が非常に高く、雑誌などにも多数紹介されている。 国指定の名勝。 なお、このページ「小野家家系図」の中にありますが「佐々木 賢治」君が過去に滝壺へ潜ったことがあるとのことです |
お霊屋下の瑞鳳寺へ |
仙台の南光台に住む「姉 みさ子」と「均」 |
END
お祝いの会開催にあたり、何かと準備にご苦労があった模様、ご苦労様でした |
みさ子さんの健康は同年齢の方々と比べ、全く比較出来ないほど立派である(チョット背が丸いが?)。 これからも、元気に過ごして欲しい、「卒寿」おめでとうご座いました。 |
上は秋保渓谷の5月を「尚」が撮影
下の小さな写真は、クリックすると拡大します
少し若かった頃の写真のようだが、この頃の「書」と思われます。 静かな心で、もっともっと元気でいて欲しい。弟の願いです! |
健一さんが素晴らしい記録ものを持参してくれた。 それは、みさ子さんの姉「やすのさん」の愛唱歌集です。 私もこの歌を聞きながら育ちました。 |
小さかった頃の従兄弟達のこの姿、今は一端の立派な社会人になりました。 懐かしいです。 |
花巻の有名人センター「宮沢賢治」「高村光太郎」「新渡戸稲造」についてのものです |
01_278_sendai_akiunosato からです
01_270_sendai_akiunosato.jpg から
「江陽グランドホテル」で 故 房利 兄の1年忌があった。 (07.08.04に開催) 家族・兄弟・甥・姪・会社関係の皆さんで行われた。 朝方にあった小雨は、程良く止んで、夏らしい木々の葉は、緑深く空の雲も綺麗に流れていた。 写した写真の数が少なく、前日出掛けた中尊寺の写真も紛れ込んでいる。また、撮影をした勇二の写真がなかったので、一覧に飛び込ませた。 さて、その夜は有志で一番町裏で2次会があり、アーッこの方が!と驚くほどの飲みっぷり、そして、その豪快さに私は驚いた(考え直すことにしました、宜しく)。 Q:何方でしょうか。 また、久しぶりに「健一君」の「さんさ時雨」を聞かせていただいた。懐かしい声に「故母 常代」のことも思い出された。有り難うございました。 |
眼鏡使用は佐藤部品商会社長「徹」さん | 仙台小野家の主「勇也」さん | 小野田佐々木薬局の理学博士「健一」さん |
小野家次女「みさ子」さんの長女「恵子」さん | ・ | ・ |
・ | ・ | 眼鏡使用は小野家次女「みさ子」さん |
・ | 小野家の末子「勇二」です | ・ |
私の親、小野 良・常代にとって、佐々木 健一さんは、最愛の初孫であり「うちの孫は」と言って、この両親はいつも自慢を欠かさなかった。 今回、多忙なところを伯父のため、そして、小野家一同のコミュニケーションを深めることのために、ご努力を頂いたことに対して、有難く存じております。 さらに、健一さんだけでなく、準備にご協力下さった皆さん、そして、参加下さった方々にお礼を申し上げます。 yuuji |
古い思い出が一杯の「佐々木薬局」店頭に集合しての記念撮影です。 喜びが満面に・・・良いものです。 皆さん、まだまだ元気でね。 何だか、こみ上げて来るものを感じます。 yuuji |
非常に悲しい事が
仙台「江陽グランドホテル」での祝いがあって間もないのに
兄 房利が急逝したとの知らせを受け、愕然とした
人の死とは・・・
平成18年8月16日午後5時28分永眠
平成18年8月18日 河北新聞に掲載された |
ご愁傷落胆のうちに進められた日程、しかし乍ら、人間の命数は、ぜひなき次第と思います。ご冥福をお祈りするのみです。 |
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僧侶の読経すみ、いよいよ、出棺、火葬場に向かう時間になりました。 |
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火葬場に到着、この行事が何か本当の別れを感じさせる。 |
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この葬儀は社葬でもあり、会社の方々の忙しさを忍びながら、祭壇を伺った。 |
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通夜の受付準備に、社員・葬儀社の方々が動き始めている。 |
通夜の焼香が始まる。 |
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お供えの生花が揃う。 |
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祭壇に飾られた「菊の花」が・・・・。 数えてみたが「数えきれない」とはこのこと。 |
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告別式にお出での方々、満席近くにもなった。 |
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会場玄関の告別式の散会風景、 |
故兄 佐藤 房利様を偲んで
房利さん、86年の長い間、ほんとうにご苦労様でした。
光子さんとも20年振りになりますが、天国でお会いできて良かったですね。きっと「とうちゃん」の来るのを待っていたことでしょう。
私たちは、房利さんをなぜか 「すさとし」・「すさちゃん」と呼んでいたものです、それは、何時の間にか、「ふさ」が「すさ」に訛ってしまったのですね。
私が房ちゃんの古い昔を思い出すのは、復員後の軍服姿で仕事のため、方々を回って働いていたときのこと、そして、食べることでは、固い煎餅・ホルモン焼き・あなご・天麩羅、ほかにも沢山あると思うのですが、なぜかその他の食べ物は浮かんでこないのです。
あなたには、生活のため、いろいろの出来ごとが沢山ありましたね。しかし、裸一貫から現在のような会社を設立し、安定するまでは、本当に大変であったことと思います。「仏の佐藤さん」と業者の方々から言われるまでには、本人のみが知る多くの苦労があったことと思います。
「信用第一」と社員を大切にしてきたことは、私が第2の職場として勤めていた中でも十分感じられました。お人好しだけでは済まされない業界、その中にあって「何か厳しさが通っている」ことを私には身近に伝わっていました。成功する人の「鍵」は、これだと思われたのです。 また、面白かった事も沢山ありました。
最後に、「終わり良ければ総てよし」とは、この「房利さん」のことで、晩年は、二人の立派な子供、さらに、優しい孫達に囲まれ、さらに、父親思いの「徹君・章子さん」に恵まれたこと、何の心配もなく好きな事を心おきなく成され、何よりでした。
後継者「徹君」は、今後あなたが思っている以上に会社を立派に育てていくことと思います。どうぞ、ゆっくりと天国で姉と二人で、仲良く暮らして下さい。
私たちはご存命中、本当に大変お世話になりました。誠に有り難うございました。
平成18年10月 満中陰に際して
弟 小野 勇也
故兄 佐藤 房利 様
興 積 院 觀 丘 利 通 居 士 |
下の小さな写真は「クリック」すると拡大します
06.08.19の夜(東仙台で)と、20日の午前 みさ子さんの家で
朝顔や人の顔には そつがある 小林 一茶(60歳頃)
高齢・喜寿・快気のお祝いを
06.04.29 仙台「江陽グランドホテル」に
おいて開催され、
参加者は、仙台小野家の関係家族30名で賑々しく、
盛大にとりおこなわれた。
今日は、天候にも恵まれ、始めてお会いできた方など、楽しい一夜であつた。
於ける、賑やかな仙台国分町のカラオケバー内のシーン
仙台小野家は C の直ぐ側です
霊屋でちょっと一服
霊屋で休憩後祖父母 「良」「つねよ」 の墓参へ
下の写真は瑞鳳寺です
いよいよ加美町宮崎へ
06.04.30 加美町に向かう、途中でシンボル的な山「薬来山」の景観に恵まれた。
車中から写した「薬来山」 | 航空写真のものチラシから |
宮崎下町にある小野本家の洞雲寺には、墓標に13代続いたとは
いえ盛衰の陰が、「有り難うございました」と手を合わせ
祈って帰った(若いご夫婦は15代目)。
しかし、新しい墓石が建立されていた。
このことについても「有り難う」と。
本家の庭に咲いていた カタクリの花 と 遅いチュウリップが |
荒沢の大滝 |
「ふきのとう」に出会い、滝の水量に驚き、さらに おいしい蕎麦と、新鮮な地の山菜を存分に戴いた。 ご馳走になりました。健一さん有り難うございました。 古い話だが、死んだ父「良」がこの近くで働いてい たことなどが思い出されました。 |
送られた写真は、橋本の小野に関係するものばかり、
いい写真をメールで送ってネ、また、編集し直します。
このページの作成については、
兄「勇也さん」の支援があって進めることが出来ました
(小野家3代目以前の履歴は、昭和2年の自家焼失により不明である)
◎ 小野家と菊地家の繋がりに入る(クリック)
この編集で何か気に付いた事など
掲示板等で教えて下さい。
また、新しい産声が有った場合 直ぐ教えてネ yuuji
お名前 | 誕生 西暦 | 誕生 年号 | 色々なこと |
酒井 春子 | 2009/10/06 | H21/10/06 | 「はるちゃん」と呼んでいるのかナー |
. | . | . | . |
元気な、酒井 春子ちゃんです。 皆さん、仲間に入れてネ、よろしく ! |
H23年の暮れに 大きくなった可愛い! |
死亡されたご先祖の生前の動きなどを
謹んで報告いたします
氏 名 | 誕 生 西 暦 |
誕 生 年号 |
死 亡 西 暦 |
死 亡 年 号 |
主たる記事 死亡された順に(人物紹介) | |
佐藤 五郎 | 1913 | T2/ / | 1946 | S21/4/24 | 短気ながら子煩悩、酒を好み他人を大事に、満州警察官、撫順警察署から、鉄嶺警察署署長を戦後シベリアに抑留され死亡。広原村出身 | |
佐藤 良子 | 1944 | S19/1/21 | 1944 | S20/1/11 | 生後間もなく死亡 | |
佐藤 正枝 | 1946 | S21/5/26 | 1946 | S21/5/26 | 生後間もなく死亡 | |
小野 つねよ | 1992 | M/25/7/7 | 1958 | S33/2/21 | 物事に対して好奇心が強く、勉強家で外国語の歌も知っていた。子どもの教育に努力し、家事その他に長け女傑的な存在であった。民謡を孫に教え伝えてもいた。 「百人一首」の勉強は、老後になっても続け、独りでカードを開いていた。 |
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小野 良 | 1985 | M18/4/1 | 1962 | S37/10/27 | 育ちからか、温厚・気長で高齢期には、妻つねよに良く叱咤されている場面があった、しかし、上手く受け流す処世術を心得ていた。役場の代書をするなど筆字は素晴らしく上手であったが、その書面が残っていない。 | |
佐藤 みつ子 | 1922 | T11/6/17 | 1984 | S59/12/8 | 明朗快活、他人を思いながらの一生を送った。頭の回転は良かった、戦中は紡績工場へ、その後保谷市の郵便局、小野田町役場、池田医院補助看護等を経て、結婚。 | |
斎藤 廣一 | 1968 | S43/12/21 | 1989 | H1/5/31 | 温厚な親重いの強い子であったが、行田市のソフト会社に就職し、研修中に自動車事故に遭遇して死亡した。 | |
佐々木 やすよ | 1914 | T3/8/25 | 1993 | H5/7/31 | 料理に好奇心があり、料理レシピが大学ノートにビッシリと3冊はあった、親兄弟を思う心が強く、夫と共に良くして呉れた。 S4年からS8年まで、医院の手伝いを、S8年に結婚した。 |
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佐々木 健治 | 1912 | M45/5/15 | 1994 | H6/2/18 | 商魂に長け堅実、しかし、田舎生活では考えられない「ハイカラ」なところがあった、子どもの教育では、これも特段なことを成し遂げた。妻の親兄弟にも心を分かち、その影響は大きかった。T14年から池田医院に勤めながら独学で薬剤師の資格を取得した。S8年に薬店を開業S18年から徴用・兵隊として朝鮮・中国に渡り、終戦後に帰国した。町の商工会会長を歴任。 | |
佐藤 房利 | 1921 | T10/4/26 | 2006 | H18/8/16 | 温厚で情が深いが、その反面「マージャン・パチンコ・競馬」のギャンブルを好んで行った。子どもとの「コミ」は勿論、孫との「コミ」の深さが強く家庭の円満を第一に気を遣っていた。また、S40年合資会社佐藤部品会社を創立、現在は県内の1,2を競う部品販売会社の礎を築いた。 | |
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(家族のページ1 END)
宮崎小野家と菊地家にリンクします